沖縄の石垣島と西表島などに棲息する国の天然記念物・カンムリワシ。狙った獲物は絶対にはずさない。
西表島と向い合う石垣島で生まれ育った具志堅。世界タイトルを獲得した後、
「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」
と言った言葉が、一躍有名になった。鋭い目、非常なまでに相手を打ちのめす切れのいい攻めは、まさにカンムリワシの異名にふさわしかった。沖縄の興南高を卒業した昭和49年に上京、2年後には早くも世界の頂点を極めて、世間をアッといわせた。
後に具志堅が在位中に作る数々の記録に比べたら、それほど驚くにはあたらないかもしれない。記録男とは、具志堅のような選手をいうのではあるまいか。昭和51年10月、ファン・グスマン(ドミニカ)をKOして世界の王座に就いたのが、9戦目。当時日本の最短戦歴だ。
昭和49年5月、プロでデビューして以来2年5ヵ月。期間のうえでも最短記録。昭和54年1月、リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)をKOで退けてV7。これは小林弘(中村)と輪島功一(三迫)の6戦連続防衛を
抜く日本新。
ジュニアフライ級は当時プロで一番軽いクラス。KOよりスピードが試合の見どころだ。ところが具志堅は、ヘビー級なみのKO劇を演出することが多かった。
V3のモンシャム・マハチャイ(タイ)からV8のアルフォンソ・ロぺス(パナマ)まで6連続KO。世界タイトルマッチでのこの記録は、故・大場政夫(帝拳)の3連続を引き放すダントツの数字である。
昭和54年の1年間で、V7からV10まで4度防衛。日本の選手で精力的に年間4度防衛をやってのけたのは具志堅が初めて。昭和55年4月、マルチン・バルガス(チリ)をKOしてV12。これはWBCをも含めた当時のジュニアフライ級の新記録。計15度の世界タイトルマッチ経験は、日本の歴代世界チャンピオンの中でこれも最多記録である。昭和51年10月の獲得から、昭和56年4月の防衛失敗までの4年半は、まぎれもなく具志堅時代と呼べる一時期で
あった。その輝きのあまりの強さに、国内の諸星はことごとくかすんでしまうという現象さえ起きた。
4年半の王座君臨は、これもまた日本記録であるが、その間、持続的に燃焼したというより、爆発的に燃焼したという印象を残しているから不思議である。現在はボクシングジム会長として第2の具志堅用高を育てるべく、ジムで情熱を注いでいる。
日本スポーツ出版社刊「昭和の名ボクサー伝説の100人」より抜粋。 |